「美しい」という言葉はなんか胡散臭い

「悪い景観100景」選定 「風格なし」「看板洪水」

都市計画、建築、土木などの専門家グループが、日本の「悪い景観100景」の選定を進めている。巨大看板、電線電柱、不況の街のシャッター商店街小泉首相が「空の復活」を提唱した日本橋も含め70カ所をすでに選んで、写真にコメントをつけてホームページで公表している。「広く景観論議を巻き起こす刺激にしたい」と「100景」の完成を急いでいるが、やり玉にあがった側は当惑気味だ。
http://www.asahi.com/life/update/0528/004.html

美しい景観を創る会
http://www.utsukushii-keikan.net/index.html
こちらから見れる。

裸地がマージンなんだからいじりようがないんじゃないかとか地権者も好きでやってるわけじゃないんじゃないかとか、細かくいろいろ突っ込めそうなところがあるが、何よりも気になるのは「最近の美的感覚」というあやふやなもののために、永続的な建造物の移築・撤去を行なうのは勇み足なんじゃないかというところだ。ローマ水道の水道橋まで遡らなくても、例えば南禅寺水路閣。建築当初は「名刹の景観を破壊する」ということで多くの反対があった(福沢諭吉も反対したという)。しかし、すっかり風景に溶け込んだ今日の様子を見れば、当時の反対者達もそう悪くないものだと思うのではないだろうか。のぼりや広告のあり方、あまりにも味気ない護岸措置への問題提起など、確かに当を得ているものもあるけれど、生き物である都市の景観の、一瞬を切り取って美醜を判定するというのは短絡的に過ぎるように思う。
坂口安吾は、「日本文化私観」にこう書いている。

 見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか。

坂口安吾「日本文化私観」