座談会:“すべての映画はアニメになる”

昨日いってきました。押井守上野俊哉、トマス・ラマール(カナダの社会学者)の座談会。
http://www.jpf.go.jp/j/culture_j/topics/movie/fsp-3-3.html#1
内容は、「いかにして開かれた映画は可能か」ということで、って書くとすげえ手垢の付いた話っぽいな。ええと、映画製作現場における「監督→スタッフ」という構造がもたらす独裁制と、映画という表現形式がもつ、観客にある視角を迫る暴力性にどう立ち向かうか、という話だったと思います。そしてそれを通じて、誰にでもある加害性(性質と可能性両方の話だと思うけど)とど向き合うかと、そういうことに着地させたかったみたいだけど時間切れ。
特に後者については、押井が「“パカパカ”という手法は、映像が写すどんな内容(例えば母親の目の前で兵士が殺されるというような映像)よりも強く、生理的なレベルで観客の目を惹きつける」「クローズアップというのは、観客を“そこにのみ何か重要なものがある”と思いこませる機能がある」などと具体的に語っていて*1、それなりにおもしろかった。
ただ、押井は、「自分はアニメを撮っていたので、そのような表現手法による暴力に気づきやすいポジションにいた」と語っていて、まあ実はこここそが話のキモになんなきゃおかしいと思うんですが、そうはならなかったのが不満といえば不満。なぜアニメの方が「気づきやすい」のかというと、それは恐らく、アニメーションはどんなカットを作る場合でも一から書き起こさなくちゃならないからで、被写体との距離とか、レンズの交換とかでひとつの情景から様々なカットを作り出せる実写に比べて、意識的にならざるを得ない、ということなのだと思う。ここに大きな罠がある。
社会学者の長谷正人(早大教授)が何かで書いていたことだったと思うけれども、実写映像において、撮影者はカットに何が写るかということを、完全にコントロールすることは出来ない。比喩的に言って、風のそよぎや、光のきらめきは、最後までランダムなものとして残る。これに対しアニメーションにはランダムな部分はない。すべてが人の手によって書き込まれ、場面を生成する。この点において、アニメーションの暴力性というか独裁性というのは実写のいかなる表現技法にもまさるんではないだろうか。
もし質疑応答があればこの辺を聞いてみたかったというか、むしろ壇上で上野俊哉が反応すべきところかと思うがどうだろう。
あと、国際交流財団は同時通訳とレシーバーを用意した方がいいと思いました。文化の対外アピールの仕方としてはアメリカンセンターに負けてますよ!
というか、200席強の会場だったのに、この座談会のエントリーを書いたはてなダイヤラーが5人はいるという事実にまずのけぞるべきなんだろうな。

*1:ただ、この括弧内のは勝手な要約で逐語的なものではないです