「終末」も安くなってもんだという気がする

「終末時計」核拡散と温暖化で残り5分に
核戦争による人類滅亡までの残り時間を示す「終末時計」が17日、「残り7分」から2分進められ、「残り5分」となった。

 時計を管理する米科学誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」(原子力科学者会報)が発表した。

 針が進んだのは5年ぶりで、冷戦終結後では4度目。同誌は、針を進めた理由として、北朝鮮とイランの核開発や核拡散への懸念ほか、米国とロシアに依然として約2万6千発の核兵器があることをあげ、「第二次核時代の瀬戸際に立っている」と警告した。さらに地球温暖化の進行も、人類の破局へ近づいた理由に挙げた。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20070118it02.htm

だそうである。なんだかなあという感じがする。確かにこの終末時計は、世界の様々な地域紛争や、あるいは環境破壊をもその進みに取り入れている。とはいえもともと核による「終末」とは、環境破壊によるような、防ぎえるかも知れない緩慢な動きによる「終末」とは違う、もっと瞬間的な破局を意味していたはずだ。確か「暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)」で、ハンナ・アーレントは次のようなことを言っていたと思う。

「この世代の人々に二つの簡単な問い――「五十年後の世界はどうあってほしいか」、「五年後の自分の生活はどうあってほしいか」――をかけたら、彼らはしばしばそれに答える前に、まず「その時に世界がまだ存在していたら」、「その時に私がまだ生きていたら」と言うであろう。」

北朝鮮やイランが、現状で予想されうる核武装を成し遂げたとしても、それによって可能となるのはせいぜい数都市の破壊であって、冷戦下の我々が脅えた、いみじくもMADと名付けられたあの破滅的な破壊の恐怖とは意味合いが違うし、地球温暖化を本格的な脅威ととらえてそれと比べるのであれば、あまりにもささやかな破壊に過ぎない。第3次中東戦争直後でフランスと中国が核実験に成功した1968年ですら、終末時計が指していたのは「7分前」だった。それと比べて「5分前」というのはちょっと悲観的過ぎやしないかと思う。核による破壊と核による終末、あるいは戦争による破壊とそれ以外による終末。冷戦以降はこれらに対する恐怖を、それぞれ切り分けて示していかないことには、恐怖の提示それ自体が狼少年になりかねないことをもう少し意識した方がよいのではないだろうか。