『ファウストvol.5』(ISBN:4061795724)

買った。季刊ペーストとはいえ1500円となるとちょっと手がでにくい。「今この作品を掲載する」という意識があるんだろうけれども、こういうことで敷居を高くするのはちょっとどうだろう。

で、まだ上遠野浩平上遠野浩平をめぐるあれこれしか読んでいないのですが、元長征木の上遠野浩平論「パブリック・エネミー・ナンバーワン」を読んで、「確かに『ファウスト』というのは80年代以降生まれのためのものであるなあ」と思った。こいういうくだりがある。

現代――世界がコントロール可能な時代とは、「今、ここ」と「向こう側」の間を隔てる何かが消え去ってしまった時代である。その失われてしまった何かのことを「大きな物語」と呼んでも良いし、単純に「社会」と呼んでも良い。ともあれ、そうした「何か」の存在していた時代には、戦場と日常の間に障壁が存在していた。

人間が戦場の日常性に飽きうるのは、多くの戦記を読めば感覚的に分かる。そしてほんの15年前まで、何気なく過ごす日常にすでに戦場の種が胚胎されていることを、我々はキューバ危機だのベレンコ事件だのミンスク極東配備だの(段々スケールが小さくなったけど)を見て繰り返しすり込まれていた。だからこそトラウマ漫画『風が吹くとき』(レイモンド・ブリッグズISBN:4751519719)が、SFトラウマ漫画じゃなくて、リアリティのあるトラウマ漫画として受容されたわけだ。そういうことをすかんと忘れてしまう(まあ多くの人は忘れているわけですが)歴史性のなさが、ソ連を知らない若者向けの(僕といくつも変わりませんが)『ファウスト』っぽいと言うより、むしろ「セカイ系」を担保しているのかも知れないと思いました。

というかセカイ系が表しているのはどっちかつうと「代議制」の危難だと思うんですけどね。最近どこぞでみた「代議制は直接民主制の不完全な形とは違う」という論議について考える方が、セカイ系の「自分と世界が直に繋がっちゃってる感じ」の問題をうまく解いてくれそうに思う。そういえば大澤真幸も「電子メディアの共同体」で同じようなこと書いていたような記憶が。